ヒットマンでの経験
ジョルジオアルマーニ(Giorgio Armani)は1965年、セルッティ(Cerruti)のデザイナーにスカウトされます。
リナシャンテでウィンドウドレッサー兼バイヤーを務めたアルマーニは消費者が求めている素材やデザインに精通し、生産の工程や流通にも通じていたことを認められての採用でした。
彼はセルッティのメンズライン、ヒットマン(HITMAN)のデザイナーに就任します。そうしてニノ・セルッティ(Nino Cerruti)のもとでデザインのノウハウを学びます。
ジョルジオアルマーニ社の設立
1970年、アルマーニは独立を果たしフリーのデザイナーとして数社の紳士服をデザインする仕事をこなしていきました。
そうして1975年、アルマーニよりも10歳年下の建築家、セルジオ・ガレッティと共にジョルジオアルマーニ社を設立します。
同年、フィレンツェにて初めてのコレクションを発表し、翌年にはレディースコレクションも発表します。品質の良い素材、美しいシルエット、着心地の良さを徹底的に追及しているアルマーニのコレクションは瞬く間に高評価を得ました。
また、アクセサリーラインやジュニアライン、アンダーウェアラインなど精力的に展開し、アルマーニは瞬く間にトップデザイナーへと駆け上がりました。
映画への衣装提供
1980年にはリチャード・ギアが主演を務めた映画「アメリカン・ジゴロ」の衣装を担当します。
この衣装がハリウッドでも評判となり、以来ジョルジオアルマーニはジョディ・フォスターやロバート・デ・ニーロ等、映画スターに熱い支持を受けるようになります。
二つの新ライン
1981年にはジョルジオアルマーニのセカンドライン、エンポリオアルマーニ(EMPORIO ARMANI )、初のジーンズラインとなるアルマーニジーンズ(ARMANI JEANS)を発表しました。
輝かしい功績
また、1982年にはTIME誌の表紙を飾ります。デザイナーがTIME誌の表紙を飾るのはクリスチャンディオール(Christian Dior)以来となり、これも多大な注目を集めました。
80年代後半に考案したソフトスーツは紳士服のパターンが生かされた婦人服として一大ブームを巻き起こし、いわゆるキャリアウーマンをリードすることとなりました。
セルジオ・ガレッティの死
1985年、長らく公私ともにパートナーだったセルジオ・ガレッティを白血病で亡くします。
それからしばらくの間、失意の中で精彩を欠いていたアルマーニですが、見事に復活を果たし、1995年にはスキーウェアやゴルフウェアを発表、ライセンスをどんどん拡大していきます。
2000年の秋冬コレクションより、メンズラインとレディースラインを統合、アルマーニ・コレツィオーニ(ARMANI COLLEZIONI)という新レーベルを発表します。
アルマーニは、巨匠中の巨匠という意味の「マエストロ・ディ・マエストロ」と呼ばれるほどの完璧主義者として知られており、その洗練されたデザインと機能性はスーツからアクセサリーに至るまで、全てのコレクションに徹底して貫かれています。また、そのエレガントで荘厳な世界観から、数々の映画の衣装デザインも手掛けています。