「ニュー・ルック」の大旋風
メゾン「クリスチャンディオール」がオープンした約2か月後の、1947年2月12日、初めてコレクションを開催します。ディオールが名付けたこのコレクションの名前は「花冠」。
のちに「ニュー・ルック」と呼ばれ、一大旋風を世界に巻き起こしました。それは1945年に起こった戦争で失ったフランスのモードを、完全に取り戻すものでした。
そのファッションは、フェミニンなラインであるグラマラスなバストとくびれたウエストで、スカートは丈が長めのふんわりしたシルエット。
ディオールが提案したニュースタイルは、今まで角ばったジャケットに短い丈のスカートを着ていた女性たちを野暮ったく見せるようなものでした。
しかし戦争後の生活で物資が不足する中、ディオールのエレガントなファッションが物議を醸し、お金のない女性たちが、ディオールの服を身にまとっている女性を攻撃し、街では暴力沙汰まで頻繁に起こってしまいました。
しかし「モード」という点では、ディオールが新たな時代を築いたことは確かであり、アメリカのファッション誌では特に評価されました。
このニュー・ルックを境に、自分の直感のみを信じ次から次へと新しいファッションを提案していきました。バイヤーたちもニュー・ルックを手に入れるため、海を越えてくるようになります。
ディオールのアトリエは一気に狭くなり、ブサックにお願いして、新しい所に2つのアトリエを手に入れました。
1947年8月には、秋冬コレクションを開催。ニュー・ルックより、より洗練されたスタイルを提案し進化させたこのコレクションも大成功に終わります。
この時代、ディオールのニュー・ルックのモードは世界の中心にありました。
広がるブランド展開
そして1947年にはアメリカで「オスカー・ドゥ・ラ・クチュール」賞を受賞しアメリカへと渡ります。その時に熱狂的な歓迎を受け、ディオールは方向性に関して、更なる確信を深めていきました。
「女性を演出するためには、女性に相応する香水を」という思いから、ディオールは香水事業にも力を入れます。そして1948年、香水やビューティーラインに特化した「パルファン・クリスチャンディオール」という会社を設立します。
1949年には「ディオラマ」、1956年には「ディオリッシモ」が発売されました。ファッションでは靴も大事という思いから、シューズラインも展開します。その人物が「ロジェ・ヴィヴィエ(Roger Vivier)」でした。
そして1953年靴専門店の「クリスチャンディオールS.A.R.L」が設立されます。ヴィヴィエの靴は、ディオールのコレクションでも登場しています。
革新的なスタイル
さらに進化を遂げるクリスチャンディオールは次々と新しいスタイルを発表し、1952年にはロングスカートから40㎝も一気に短くしたスカートや、1953年には「チューリップ・ライン」と称し、ふんわりとしたスタイルを発表しました。
1954年以降はウエストをもっとゆったりしたラインへチェンジし、ニュールックをやめました。しかしこのデザインもまた、世界に称賛されることとなりました。
ディオールの死
1957年には、クリスチャンディオールも10周年を迎えましたが、ディオールは、日頃の不摂生により体調が悪化。
肝臓にかなりの負担をかけていることからダイエットに励みましたが遅く、同年10月23日にイタリアにある療養地で静かに息を引き取りました。この突然の死に、ディオールを愛するもの、そして世界中に衝撃を与えました。