エディ・スリマン(Hedi Slimane)とは、チュニジア系の父とイタリア系の母との間に生まれたフランス・パリ出身のファッションデザイナーです。
独学での服作り
入学難易度の高さは世界的にも屈指で、歴代のフランス大統領や大臣、官僚を排出しているフランスの名門校グランゼコールを卒業した後、エコール・ド・ルーブル(ルーブル美術学校)で美術と歴史を学んだ後、1992年から1994年までジョゼ・レヴィに加わりファッションディレクターを勤め、1994年から1997年までジャン・ジャック・ピカールの下でアシスタントを務めます。
スキニーな自分の身体に合う服がないからと10代の頃から独学で服を作り始めましたが、正規の教育は受けていません。
イヴ・サンローランへの抜擢
1997年、当時のエディは無名に近かったのですが、イヴ・サンローラン・リヴ・ゴーシュのメンズラインのクリエイティブディレクターに抜擢されます。
その後約3年にわたってイヴ・サンローランのメンズラインを活性化させ、さらに1998年からはジーンズラインの「サンローラン」をも手がけます。
ディオールオムの発足
しかし、2000年のグッチグループによるイヴ・サンローラン買収劇の中で、エディはイヴ・サンローランを離れることになります。
そして2シーズン後の2001-2002AWシーズン、クリスチャン・ディオールのメンズウェアラインとしてディオールオムが発足します。ここで立ち上げのクリエイティブディレクターとして就任したのがこのエディ・スリマンです。
衝撃を与えたデザイン
エディによるディオールオムはファーストシーズンから世界に衝撃を与えました。
当時はストリートファッション、ヒップホップファッション、アメリカンカジュアルなどのゆったりとしたファッションがトレンドで、太めのパンツがモードの中でも主流であった中、モノトーンを基調としたシャープなシルエット、鋭いカッティングで非常にタイトなテーラードスーツといった、当時では考えられないような作品を発表し、一晩で世界のトレンドを一気に塗り替えてしまったのです。
「少年性」と「ロック」をテーマにしたエディによるディオールオムは、無駄な装飾やアート要素を極力削ぎ落とし、身体にフィットする美しいシルエットの作品を生み出し続け、世界中のファッションに影響を与えました。
今でこそ当たり前になっているテーラードジャケットを取り入れたスタイリングや、長いレングスをあえて裾に弛ませるようなスタイリングは一気に街に広がりました。
その中でも特に反響が大きかったのはデニムで、スキニーパンツを世に送り出したのはエディとも言われるほどであり、ディオールオム以外のジーンズも細身一色になったのです。
また、メンズのトレンドがレディースにも影響するというそれまでなかった現象を巻き起こし、男性だけでなく女性をも惹きつけ、多くの人々を魅了しました。
カール・ラガー・フェルドの逸話
デザイナー界の皇帝とも言われるカール・ラガーフェルドが、ディオールオムのスーツが着たいがために、13ヵ月かけて42kgという無茶なダイエットに成功したという話はあまりに有名で、細さをストイックなまでに追求し、その体型を購買者に求め続け、それに多くの人が魅了され、信者とも言うべき熱狂的なファンをも生み出しました。
そんなエディの手腕が認められ、2002年4月にはCFDA(アメリカファッション協議会)によって「デザイナー・オブ・ジ・イヤー」に選ばれ、2003年7月には、3年間の契約延長をします。
以降のコレクションにおいても、常にモードを牽引する活躍をみせ世界中の注目を浴び続け、ディオールオムというブランドをトップブランドに押し上げ不動の地位を確立させました。
エディの退任
しかし、2007-2008AWシーズンを最後にディオールとの契約期間満了にともない、輝かしい功績を残したエディは惜しまれつつもディオールオムのクリエイティブディレクターを退任してしまいます。
エディの後任にはエディのアシスタントとして2004年までディオールオムに在籍した経験を持つクリスヴァンアッシュが就任し、エディのアイデンティティを引き継ぎながら、今でもディオールオムを牽引しています。
エディが就任していた当時のディオールオムと現在のクリスによるディオールオムとは、提案するスタイルは大きく変わりましたが、現在もディオールオムがメンズファッションにおいてモードの最前線で君臨し続けていられるのは、間違いなくエディがいたからこそだと言えます。
エディによって創り上げられ、エディチルドレンによって引き継がれたディオールオムはこれからも進化していくことでしょう。