「モノグラム」の誕生

1892年2月27日、創業者のルイ・ヴィトンが亡くなると、跡を継いだのは息子のジョルジュ・ヴィトンでした。ジョルジュは、ヴィトン社をさらに飛躍させるため、翌年にはアメリカ、シカゴで開催された万国博覧会に出展するなど、意欲的な活動を繰り広げます。 また、かねてから悩まされ続けてきたコピー品の横行問題への対策として、新たなトレードマークとなる生地を開発、1896年に発表したのがルイヴィトンを代表するパターンとなる「モノグラム」でした。 日本の家紋からヒントを得たと言われる様々なアイコンと、創業者のイニシャル「LV」を組み合わせた複雑なデザインは、当時全て職人による手書きによるもので、粗悪な模造品の一掃に大きく貢献しました。

トラベルバッグ専門店のオープン

その後ジョルジュはアメリカに渡り、ニューヨークやシカゴなどを転々とし、ルイヴィトンの商品を売り歩いたといいます。 さらに1900年にはパリ万国博覧会において「旅行グッズ及び革製品」の部門を担当する栄誉を得たほか、1904年に開催されたセントルイス万国博覧会ではジョルジュが議長を務めるまでとなっていました。 1914年には、手狭になっていた本店をパリのシャンゼリゼ通りに移し、トラベルバッグ・グッズ専門店をオープンさせました。店舗の広さは4フロアで約500平方メートルと、当時としては世界最大級の専門店でした。 その顧客リストには、グレタ・ガルボ、マレーネ・ディートリッヒなど、当時を代表するセレブの名前がずらりと並んでいたと言います。 実はこのショップ、1921年には日本の皇族も訪れています。のちの昭和天皇である裕仁皇太子がお忍びでシャンゼリゼ通りの散策されたあとに立ち寄り、いくつかのトランクをご覧になっていったのだとか。 その場ですぐに購入はしなかったものの、後日お付きの人が改めて買い求めに来たと言われています。

新たなバッグを次々と発表

その後もルイヴィトンは、1924年には「キーポル」、1932年には「ノエ」など、続々と新しいバッグを発表していきます。ちなみにこの「ノエ」とは、シャンパンを5本収納して持ち運べるバッグという特化したコンセプトで作られたものでした。

日本への上陸

日本にルイヴィトンが本格上陸したのは、ブランド創業から実に120年後。1978年の3月には、東京に3店舗(日本橋高島屋、サンローゼ赤坂店、西武渋谷店)、大阪に2店舗(西武ピサ大阪ロイヤル店、アンロワイヤル阪急17番街店)、9月には大阪にさらにもう1店舗(高島屋大阪店)オープンしただけでなく、1981年には日本初の直営店を銀座にオープンさせました。 ルイヴィトンは、一時期、イギリスのロンドンやアメリカにまで支店を出していましたが、第二次世界大戦後、残っていたのはフランス国内、パリとニースの2店舗だけでした。 1970年代は、コムデギャルソンやヨウジヤマモトなどのデザイナーブランドがパリに進出し、活躍し始めた時代。それに合わせて、パリにあるルイヴィトンという評判のショップが日本人の目に止まるのは、時間の問題でした。 やがて長蛇の列を作って買い求めるようになっていったのです。それならばと、ルイヴィトン海外再進出の第一号として日本に白羽の矢が立ったのは、必然だったと言えるかもしれません。
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