1994年代、三原康裕は多摩美術大学デザイン学科テキスタイル学部に在学中のこと。当時ファッション業界の靴と言えばクラフトマンシップ、オーセンティックなど、停滞のジャンルとされていました。そこに疑問を感じた三原康裕は、何か新しい物を作りたいと思い、ミハラヤスヒロのブランドの始まりとも言えるシューズ作りを学び始めます。
後世に残る芸術品を残す。という美術に対する反発心の一つとして、人が普段の生活の中で使用する、日常的な何かを作りたいと考えました。三原康裕にとってそれがシューズでした。
その頃、芸術やアートは美術館の絵や彫刻などを展覧会として展示し、作品に共感や感動を覚えても、手に取って触れることはできず、作品は作品として自分との間に距離ができ、あくまで傍観者としてでしか芸術を体験できませんでした。
そこに疑問を感じ、もっと芸術を親密に、日常化したいと考えました。
その後、自己分析や様々な作品作りを重ね、シューズは人間の私生活で履きこまれ、使い込み最後は壊れて使えなくなってしまいます。そこを終着点と考え、今でも物作りに携わっています。
ミハラヤスヒロのブランドコンセプトでもとも言えるシューズ類ですが、靴の専門学校などに通ったわけでもなく、木型も知らない素人同然の状態から独学で靴を作り始めます。
様々な人との出会いや、実際に靴職人の現場まで行き、知識と技術を吸収します。時にはイギリスの職人の元まで足を運び技術取得に励みました。
三原康裕の貪欲な探究心から、様々な人の仕事や人生の背景を模範することにより、これまでの自分自身の固定概念を崩し、新たに自分の作品として靴を作りこみました。
この頃からより一層、世の中へ発信していきたいという気持ちをさらに強く持つ様になりました。
「ミハラヤスヒロの靴」といっても様々な靴がありますが、その中でも代表的な物が「炙り出し」加工を使った物になります。ベルトや、ジップなどを革の内側にはさみ、炙り出し立体に見せる技法をシューズ類に使用し、シューレースやガントレットを炙り出し加工で内側へ納め、使い込むことによって、炙り出しがより一層濃く浮き、最後は内側のパーツが露出します。
そこまでを計算し一つの作品とし作られ、こだわりぬかれたミハラヤスヒロのシューズは、その凝り性な職人気質を好んで、日本や海外のアーティストや芸能人などが愛用しています。
「新しい何か」を常に考え、世の中にないものを0から1へ発信できるデザイナーとして、今でも三原康裕のシューズ作りは続いています。