プラダの立て直し
マリオ・プラダの没後、長く低迷する期間が続いていたプラダでしたが、ミウッチャ・プラダがオーナー兼デザイナーに就任した事によって事態は変化を見せ始めました。
ミウッチャは若作りの可愛いタイプの女性でしたが、社会学で博士号を取得する才媛でもあり、母ルイーザに頼まれて、気乗りしないままファミリービジネスを手伝うようになったのは、28歳の時です。様々な変革を起こしプラダを復活させ、ミュウミュウをトップブランドにまで成長させました。
パトリツィオ・ベルテッリとの出会い
1978年ミウッチャ・プラダがオーナー兼デザイナーとして活動を開始したことによって、プラダの躍進が始まります。しかし、その始まりには少し前のある出会いが重要なきっかけとなっていました。それはパトリツィオ・ベルテッリとの出会いです。
トスカーナ地方のビジネスマンであるベルテッリは、高品質の革小物の製造で高い評価を得ているメーカーを2社所有していました。ミウッチャとベルテッリはビジネス・パートナーとして協力関係を築いた後、私生活でもパートナーとなります。
この公私にわたる関係から、現在の躍進が生まれたといえます。ミウッチャが豊かな創造力を発揮する一方、ベルテッリが経営、生産面のブレーンとなったのです。ベルテッリをパートナーとして、プラダの名は再び世に知られることになります。
そのきっかけは、ベルテッリの「プラダは新しい一歩を踏み出さなければならない」という一言でした。
ミウッチャは、これまでにない新しい物をつくろうとまだ見ぬ素材を追い求めました。そして行き着いたのが、ミリタリー用品の工場でみつけたポコノとういう素材でした。この素材を用いてバックパックを開発し、これが現代女性の合理思考に合い、瞬く間に人気を得ました。
ミュウミュウのスタート
その後、次々と新しいバッグやリュックを発表し、85年にはシューズ、88年にはレディースプレタポルテを発表。93年よりミウッチャの幼少期の愛称をブランドネームにした「ミュウミュウ」をスタートさせます。
プラダよりも幅広い年齢層をターゲットにし、少し控えめな高級感にして価格も抑え、気取らないカジュアルなイメージを前面に押し出しました。また現代的で革新的な素材使いと、デザインの斬新さという強い個性を見事に調和させたことによって世界的なブームになります。
ミラノコレクションで年2回のコレクションを発表していましたが、06年より最も規模の大きなパリコレクションへと発表の場を移し、ミュウミュウは世界へ羽ばたくブランドになります。
躍進を続けるプラダ
その後95年にはメンズウエアを発表。96年になって逆三角形のロゴプレートを付けたポノコ製品を広く展開するようになります。98年に「プラダ・スポーツ」を発表。
得意のナイロン素材を駆使して、シンプルでスタイリッシュなデザインの高機能なスポーツウェアやスニーカーを発表。スニーカーなどヒットアイテムが登場しました。
プラダが躍進をつづける中、90年代ヨーロッパのブランド企業は、IT革命によるバブル経済の恩恵を受け、他のブランドを買収し巨大グループを再編するという拡大路線を取っていました。
プラダもイタリア初のブランドグループを作り、フランス企業で独占されるラグジュアリーブランド市場に風穴を開けようと奮闘しました。一番最初の買収は、96年にグッチの株式を買い占めた事です。
しかし、荷が重かったのか99年までにLVMH(モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン)に全てを譲渡。90年代の後半以降、ヘルムートラング、ジル・サンダー、イギリスのシューズブランドのチャーチと、数々のブランドを買収。また財政難にあったフェンディを傘下に置きました。こうしてプラダは素早い買収戦略でわずか数年の間に巨大ブランドグループへと変貌を遂げたのです。
多角化路線の縮小
しかし、2000年代に入りバブルに踊った経営が長続きする事はなく、アメリカのITバブル崩壊と9.11事件と呼ばれるニューヨークを震撼させたテロ事件によって、順調だった買収戦略、イタリア初のブランドグループ構想はあっさりと幕を閉じます。
最初にフェンディをLVMHに売却し、赤字が続いていたヘルムート・ラングとジル・サンダーも手放しました。
こうして90年代後半から拡大したブランドの多角化路線は縮小、プラダの伝統を継承しつつ、時代のニーズを的確に捉えた高いクオリティのファッションは、現在でも多くのブランドに影響を与えて続けています。