ハリウッドでの成功
サルバトーレフェラガモ(Salvatore Ferragamo)は、イタリアカンパニア州アヴェッリーノ県ボニートで生まれます。11歳で靴屋を開業し、1910年半ば15歳でアメリカに渡りました。
1919年、カリフォルニア州サンタバーバラに靴の修理とオーダーメイドができる店舗を開店します。靴が完璧に足にフィットすると注目を集め、映画関係者なども訪れるようになったそうです。
1923年、ハリウッドブーツショップをハリウッドに開店します。マリリン・モンロー、オードリー・ヘプバーンなど数々の名優の靴を手掛けたサルバトーレフェラガモは、スターの靴職人と呼ばれるようになります。
1925年、南カリフォルニア大学で解剖学を学んだサルバトーレフェラガモは、足を痛めない靴を制作する手法を身につけ、画期的な靴型を開発し、特許も取得しました。
また、足を触っただけでその人の体調もわかったと言います。ハリウッドでは成功しましたが、機械生産であったため、イタリアで手作りにこだわった靴制作がしたいという夢がありました。
フェラガモの誕生
1927年、サルバトーレフェラガモはイタリアに帰国し、サルバトーレフェラガモ社を開業します。ところがナポリ、ミラノなどどこへ行っても彼の計画に賛同してくれる人が現れず、途方にくれ最後に訪れたフィレンツェで優秀な靴職人を60人近く集め高待遇で採用しました。サルバトーレフェラガモの監督の下、フェラガモ独自の製法で靴製作を行います。
そして、フィレンツェのマネーリ通りに自らの名前を冠した工房を開店しました。また、翌1928年に、サルバトーレフェラガモ第一号店を開店します。こうしてできたオリジナルのサンプルを持ってアメリカの靴専門チェーンI・ミラー&サンズの社長に見せますが、「くだらないもの」と評価されます。
しかし、諦めずサックス・フィフス・アベニューのマニュエル・ガートンにサンプルを見せたところ、ガートンは大変気に入りその日のうちに何千ドルの注文書を作成しました。更に、マーシャル・フィールドとの契約にも成功しました。
破産
ところが、カリフォルニアの会社の運転資金が底をつきかけ会社自体が全く回らず、フィレンツェの職人は半分に減り、サルバトーレフェラガモのやり方に不満を持ち独自の製法で靴を作っていたのでした。
靴の出荷ができないと考えたサルバトーレフェラガモは、職人をすべて解雇し、靴職人を目指す学生を採用しました。靴製作の工程を流れ作業化し、イタリアでは靴の販売はせず、アメリカ、ロンドン、パリなどへ輸出することになります。
しかし、サルバトーレフェラガモはフィレンツェで靴作りの指導を行っていたためアメリカへは頻繁に帰れず、カリフォルニアで販売していてもフィレンツェには送金せず会社の資金繰りが悪化、更に1929年の不況、ニューヨークを起点とする世界恐慌が起こります。ハリウッドの店は売却せざるおえず、金融業者から借金もしたためサルバトーレフェラガモは破産してしまいます。